岩崎美和(倍賞美津子)
岩崎美和(倍賞美津子)

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岩崎美和(倍賞美津子)
1814生 1900年没
土佐の地下浪人弥次郎の妻で弥太郎の母 安芸浦西ノ浜の医者の娘だった
弥次郎がばくち打ちの酒飲みのだらしない父親であったため家族を支えていた
美和は逞しさと優しさを身につけていた人で、弥太郎を含めで岩崎家の精神的支柱であったと伝えられる
美和の作った家訓がある

黒潮の海、積乱雲わく・・・岩崎彌太郎物語・・・
vol.19 偉大なる母

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彌太郎の母 美和の肖像

「そのごハ御機嫌よく御暮し遊ばし候ハん…するがだい(の彌之助一家)もゆしま(のわが家)も皆々あいかわりなく一同ぶじニ御座候間、御あんしん遣わされ度くそんし候なにもなにもお気遣いなく…はやはやお帰り遊ばされ度く候先ハあらあらめで度彌太郎 御母上さま」

明治9(1876)年から10年にかけて、母美和(みわ)が大阪の長女春路(はるじ)のところにしばらく行っていた時に、毎日のように書いた彌太郎の手紙の一節(注1)である。

明治9年というと、その前の年、日本国郵便汽船会社を吸収して「郵便汽船三菱会社」を名乗り、第一命令書による政府の助成策を独占的に享受するなど、まさに破竹の勢いだった時期である。社長独裁を標榜する三菱なれば彌太郎は多忙の極み。夜は夜で人脈造りと称して芸者をあげてのドンチャン騒ぎ。身体がいくつあっても足りないはずだったのに、母にあててこうもマメに手紙を書いていたとは…。

井ノ口村の地下浪人(注2)岩崎彌次郎に嫁いだ美和は、もともとは町医者の娘。貧しい暮らしの中でも凛(りん)として誇りを失わなかった。子どもたちには生涯絶大な影響力を持ち続け、世が変わって彌太郎が海運事業に乗り出してからも、内にあって彌太郎を絶えず励まし、時に厳しく諌(いさ)めてきた。万事にがむしゃらな彌太郎には敵も多かったが、母は生涯を通して心の安定をもたらす存在だった。

美和は、岩崎家に家訓を残している。

一、人は天の道にそむかないこと。
二、子に苦労をかけないこと。
三、他人の中傷で心を動かさないこと。
四、一家を大切に守ること。
五、無病の時に油断しないこと。
六、貧しい時のことを忘れないこと。
七、常に忍耐の心を失わないこと。

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